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杉本流推運学とは

『 杉本流推運学』とは、四柱推命・方位・家相・姓名判断・手相・人相と言った命・卜・相を組み合わせ、杉本巖先生が独自に研鑽し唱えた学説「総合運命学」の事であります。
『杉本流推運学』が現在の形に至るまでの歴史を遡っていきますと東洋占術の成り立ちにたどり着きます。
その東洋占術の基と言えば、易となります。 

易の起源は三皇五帝の時代の『伏犠』により易の八卦が考案されました。
『伏犠』は黄河の中流地域から躍り出た龍馬とその斑点を見て自然界の現象と併せて「河図」先天八卦を考えました。 これが「易」の起源とされています。

 その後、夏(か)の王朝(元前2070年頃~紀元前1600年頃)の禹の時代に黄河の治水事業を行っていたところ、神亀が出現し亀の甲羅の紋様を元に「洛書」後天図が考えられました。

「河図」先天図を易の“体”原理とし「洛書」後天図を易の“用”展開とされました。
「易」は古代中国で哲学的世界観として形成されました。古い卜占術として複雑で緻密であり高尚な占術として支配階級の間で尊重され帝王学として壮大に発展し、伝承されてきました。

我が国の占術の歴史は第29代『欽明天皇』の時代百済の明王から勅使が来訪し「易経」「春秋緯」の書物が朝廷に届けられました。
後の第33代『推古天皇』は、欽明天皇の第三皇女で日本初の女帝です。
『推古天皇』の時代に百済の僧が渡来し唐から暦、天文、方術の法を説いたのです。
その後、我が国の占術に関する文化が発展し研究が盛んになり遣唐大使としての『多治比広成』や遣唐留学生の『吉備真備』が「経書」「天文暦書(大衍暦経)(大衍暦立成)などの易・占術学書を持ち帰り献上しました。
この事から公家などの間では政治や生活などに「卜占」の占筮を行うようになりました。
平安時代には天文や占術を行う公的機関として陰陽寮が設置されました。
それは、卜占としての六壬や方位術など吉凶の知識判断が必要となってきたからです。
更に戦国時代に入ると武将たちは戦いに勝つ為の一つの方策として占術を重要視しました。

「卜占」に通じた人物を軍師として置き戦略を建てていました。
 そのような「易・占術」を用いる軍師の養成機関として下野国足利荘の足利学校が存在しました。足利学校出身の多くの者が各地の大名に仕え重宝されました。
この様に占術は、少しずつ生活の術として浸透し身近なものとなっていきました。
江戸時代には、卜占術・古易中興の祖と言われる『新井白蛾』や六変中筮法を重用とし「生卦法」と言われる観象読卦の方法をとり実占家として活躍した『真勢中州』などが近代易を確立させていきました。
また、「易聖」と仰がれた『高島嘉右衛門』もこの時代に生まれました。

 卜占術だけでなく手相、人相といった観相学の占術も盛んに行われるようになりました。
日本の相法の母体とも言われる中国の書「神相全編」の影響を受け『水野南北』が「南北相法」を発表しました。
その後、人相・手相の人気が高まり一般に普及し裾野を広げていきました。
驚異の的中率から占術の最高峰と呼ばれ、占術界の帝王とも言われている「四柱推命」が中国から伝播されたのが、江戸時代中期頃、文政年間とされています。 
仙台の医師『桜田虎門』が、中国の「淵海子平」を訳し「推命書」を上梓しされたのが
日本での始まりとされています。
その後、明治20年に『松本義亮』が「淵海子平」「星平会海」の研究を重ねて日本の風土にあった占術を完成させそれを「四柱推命」と名付けました。
その後、「四柱推命奥義秘伝録」を刊行しました。

日本名「四柱推命」、中国では「命理」「子平」「八字」と呼ばれています。
中国宋の時代『徐子平』が「淵海子平」の原型となる「珞琭子三命消息賦注」を記しました。
のちに『徐大升』がまとめ上げて「淵海子平」を著わしたのが四柱推命の起源と言われています。 その後、1500年代(明代)から1900年代にわたって「滴天髓」「命理正宗」「三命通會」「命理約言」「子平眞詮」「滴天髓闡微」「命理探原」「子平粋言」「滴天髓微義」「窮通寶鑑」「造化元鑰」「命理一得」「子平一得」「命理新論」「八字提要」などの書籍が多くの研究者によって著わされました。
(「滴天髓」著者 劉伯温・「命理約言」著者 沈孝瞻・「滴天髓闡微」著者 任鐵樵・「命理探原」著者 袁樹珊・「子平粋言」著者 徐樂吾・「命理新論」著者 呉俊民 他は著者不明)、時代背景、地域性(東方、西方、南方、北方)、個々の身分により多くの学派、見解、手法、が取り入られました。また、干支術、算命術と言った推命占術関連書籍が著わされました。
 
 
 
  中国の研究者が上梓した多くの書籍等が日本に渡って来た結果、日本国内に多くの流派、流儀が誕生しました。漢文で書かれた文献資料の翻訳、解釈の違いにより国内に多数の流派、流儀が現在も存在している理由の一つだと推察します。

明治時代以降も、研究者が多く現れ研究、分析を盛んに行いました。その研究者の中で頂点に君臨したのが、杉本巖の師『阿部泰山』であります。阿部泰山は、1888年(明治21年)4月29日に淡路島で誕生。中国伝来の伝統的な占術書を研究、研鑽し最高に権威のある占術書として「阿部泰山全集」全22巻を京都書院より刊行しました。
京都の自宅で定期的に講演会を開き門弟の育成にも尽力し、その門弟の中から実占家として活躍する人材を輩出しました。
阿部泰山自身も実占を行い卓越した技量から高い的中率を誇りました。
まさに日本占術界の最大の功労者であり最高の功績者であります。阿部泰山の門弟として受け入れられるのは、本来は限られた人物のみとされていました。

杉本巖の母 杉本ふくは呉服店を営む傍ら、仕事、家庭、家族や子供に関する占術鑑定を長年、阿部泰山先生にお願いしていたのです。この様な御縁で杉本巖は戦後の間もない頃に門弟として受け入れられ、阿部泰山一門の高弟として認識されました。
昭和40年代前半、ある占術団体の代表が若かりし頃、阿部泰山一門への入門をお願いに行ったところ阿部泰山は「大阪の杉本巖のところへ行きなさい。彼には、すべてを教えてある」と言われ阿部泰山先生から生徒の紹介なども受けておりました。
 
杉本 巖

大正15年(1926年)京都府生まれ。終戦直後に紫微斗数や六壬神占と四柱推命学を阿部泰山先生より指導を受け、気学(園田真次郎先生)や姓名学等の他の運命学も多くの諸先生の導きを受けるとともに、わが国古今の関係書籍や中国の占術関係の書類を山のように多数収集して研究を続ける。経営コンサルタント(経営士・中小企業診断士・社会保険労務士)として大阪府や各市での経営診断、商工会議所や公共団体での経営講演、大企業や一般会社での社員教育などに従事し経営能率に関する研究発表、全国能率連盟などの入選受賞も数多い。その他に大阪芸術大学短期大学部(旧・浪速短期大学)で、助教授として週に2日教鞭をとる。運命学者以外にも、多方面で活躍。日本発となる通信教育の先駆者でもあり、普及されていない時代よりパソコンを活用するなど、常に時代の最先端に立つ。
 昭和20年代   国税局に勤務
   四柱推命学の大家・阿部泰山氏に師事
   気学の創始者・園田真次郎氏に師事
 昭和30年代  経営コンサルタント所長就任
   著書「百年暦」を作成・出版し、四柱推命教室を開校
   推運学会創立、杉本流図式体系表化「四柱推命」確立
 昭和40年代  「杉本流姓名学」を発表
   「気学密象術」を発表
   シオノギ製薬、武田製薬の相談顧問就任
   恩師・阿部泰山氏より生徒の紹介を受ける
 昭和50年代 産経学園大阪で四柱推命講座を開講
天王寺ステーションビルで占い鑑定所(共同経営)を開始
大阪芸術大学短期大学部(旧・浪速短期大学)講師就任「百年暦運命鑑」発行
大阪芸術大学短期大学部(旧・浪速短期大学)助教授就任
NTTグループの前身である旧・日本電信電話公社と提携し、日本初のパソコンによるオンライン鑑定開始
コンピューターソフトを開発・発売 (四柱推命、西洋占星術、手相、易)
コンピューターハードを販売(易プロ1号、易プロ2号)
大阪博覧会にてコンピューター占いを発表
千趣会(ベルメゾン)の通信販売事業を監修
NHKテレビ出演、官庁関係や企業へのコンサルタント・講演を多数行う。
 
  昭和56年研究発表会   コンピューターソフト開発
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